猫一匹拾っても、世界は変わらない。でもその猫と家族にとっての世界は、まったく違うものになる。
実話を元にした猫小説、連載第6回。新入りの「ボンビ」は、キャリーケースから飛び出すとソファに飛び乗りオシッコをじょ~~。と思ったら今度は「わたし」に頭をすりつけゴロゴロ~。とんでもなくマイペースな猫だった!
つぎの日からも、ボンビはわたしにひっついてくる。ニコニコしているのか、マジメなのか、遠慮がないのかわからない顔で。
いちど「シャーッ!」とおどかしてみたら、「ニャッホ~」と返されて、つぎはマウントしながら「シャーッ!」をしっかりと決めても「ニャッホ~」だったから、まったくやる気がうせた。
そんな日がつづいてむかえた朝。いつもの場所にゴハンが置いてある。でも、あんまり食べたくない。プの猫じゃらしは上手くなったけれど、すぐにボンビが割りこんでくるし、遊ぶのにも気が乗らない。
その夜、プが「今日のテンコ」メモで、ランにわたしの一日を伝えていたら、ランが言った。
「どうもテンコの元気のなさはふつうじゃない。明日は土曜日だから午後からの仕事はないし、獣医さんに診てもらおう」
獣医さん。好きじゃない言葉。つぎの日は朝から隠れていたけれど見つけられてしまって、キャリーケースの中に入れられた。
「佐々木テンコちゃん」と呼ばれ、診察台ではまたプスとかプチとかされたあと、獣医さんが
「おそらく、猫ウイルス性気管支炎でしょう。今週の火曜日にボンビちゃんを引き取っていらっしゃいますから、ボンビちゃんから移されたのかと」
プは、
「でも、テンコは5種混合ワクチンを接種していますよ?」と不思議そうだったけれど、
「ワクチンを打っていても、まれに感染する子はいます。まずは食欲を戻して、体力を回復しないと。ここ数日、なにか少しでも食べていたゴハンはありましたか?」
「それが、どんどんと食べなくなって」
「じゃあ、これを食べられるか、少し試してみましょう」と言った獣医さんは、小さなお皿に柔らかそうなゴハンを置いた。わたしは顔を横にむけた。
「このご飯は栄養価が高くて、けっこう色々な猫ちゃんも食べてくれるのですが。スプーンからだったら、大丈夫かな?」と、わたしの鼻先にスプーンを近づけた。でも、やっぱり食べたくない。
「スポイトですかねぇ」と、口の両横をすこし強く押されると口が勝手に開いて、硬いスポイトというものが口に入ってきたとき……思わず前足で振りはらったら、鼻がチリっとして、わたしを見ていたランとプがうしろにすっ飛んで、それから鼻がじわ~と熱くなった。獣医さんが言った。
「ガサガサのかさぶた状になっていた鼻の表皮が、爪に引っかかって取れてしまいましたね……。でも鼻は元に戻ります。まずは十分な栄養と水分の補給が必要ですが、通院で治療はできます。どうされますか?」
意外なことに間髪いれず、ランが
「通院じゃなくて入院でお願いします。人間の流血は慣れているけれど、鼻から血を流す猫は、見たこともなくて……」
横でプがランの腕につかまって、うんうんと言っている。
けっきょくは、入院ということになってしまった。プは、
「毎日、お見舞いに来るから」と泣きそうになっていた。
プは毎日、夕方に獣医さんに来て、獣医さんからいろいろな話を聞いて、
「テンコちゃんは、順調に回復していますよ。頑張って食べくれますし、点滴の時もびっくりするくらい大人しいですよ」と言われると、
「明日こそ、お家に一緒に帰られるのかな?」とほっとした顔をする。
そりゃ、がんばる。プが知っているお昼の獣医さんとは違って、夜中もここにいるほかの猫も犬も、わたしもそうだけれど、たぶん元気がない。だから顔は見えなくても「お家に帰りたいのに、帰れない」ってみんなのシンとした気もちがケージ越しに伝わってきて、部屋の空気がすとんと寂しくなる。はやく元気になって、お家へ帰らないと。
つぎの日はプがキャリーケースを持ってやって来た。あんなにも嫌いなキャリーケース。でもこのキャリーケースは、お家に帰るまえに入る場所?はじめて自分から入りたいと思った。そしてランの車じゃないタクシーという車で揺られたあと、お家の前の見なれたポーチまで戻れた。
「テンコ、お疲れさま。今、鍵を開けるね」とプがドアをあけると、これも見なれた玄関。やっと……と思った瞬間に、そうだ、すっかり忘れていたボンビ! ボンビがトコトコと近づいてきて、わたしの鼻に口をすり寄せようとした。避けようとして「シャーッ!」をしようとしても、まだ気合いのはいった「シャーッ!」ができない。するとボンビはまえと同じように、「ニャッホ~」と鳴いてから、わたしにスリスリしてくる。
なぜだか、好かれている。それともボンビには、「好き~」しかないのかな。ボンビが来た日、プが言っていた。
「実家の猫たちの縄張り争いは厳しいのに、ダンボール箱で十匹くらいがぎゅうぎゅうになって暖をとっているど真ん中で、お腹を見せて寝ているボンビを見たとき、よほどの強心臓だと思った」
悪いことなんてされるはずがないと思っている猫には、「シャーッ!」もわからないのかな。
ランが帰ってきて、久しぶりにゆっくりとゴハンを食べた。そしてランが眠るまえ、
「テンコ、よく頑張ったね。横においで」と、布団の上からランのお腹あたりをポンポン、とたたいた。ベッドにどうにか飛びのって、その横で寝そべったら、からだ中がとろけるくらいに、ぐにゃ~と伸びてしまった。
ボンビも「ニャッホ~」とベッドに飛びのって、ぐるぐる歩きまわったあと、眠るプの顔にひっつきながら、プの枕で仰向けになって前足を胸もとにチョコンと折りたたむと、ぐにゃ~と伸びた。
ラン。プ。みんないっしょの場所は、ここ。
ボンビも、ここにいることになっちゃったみたいだけれど、どうでも、よい。
どうにか、なる。
文・堀 晶代
写真・堀 晶代/カズノリ
ほり・あきよ
フリーライター。物心ついた頃からたくさんの猫たちと育つ。大阪市立大学生活科学部卒。2002年よりワイン取材で日仏往復生活を送るなか、母の「フランスの猫の写真を見たい」という思いつきのような言葉から、猫や猫をとりまく人たちの撮影や取材を開始。自著に『リアルワインガイド ブルゴーニュ』(集英社インターナショナル)。現在は夫、猫二匹と一緒に大阪暮らし。