猫も治療する脳外科医・安倍欣博先生

取材・文 西宮三代 写真 平山法

動物の脳神経外科という未知の領域を開拓した安部先生

脳神経外科専門の「獣医師兼医師」

今回ご紹介するのは、日本では類まれな脳神経外科専門の獣医師でもあり、医師でもある安部欣博よしひろ 先生。

まずは先生が手術で治療することの多い「脳腫瘍」について説明しておこう。

猫や犬にも人と同じような病気があり、脳腫瘍もその一つ。今は動物医療の世界でもCT(コンピュータ断層撮影)やMRI(磁気共鳴断層撮影)といった画像検査が進歩しているため、見つかるケースが増えている。しかし問題は「そこからの治療」だ。

人の脳腫瘍の場合、脳神経外科医(以下、脳外科医)による外科的治療(手術)を中心に、腫瘍が悪性の場合、放射線治療、抗がん剤治療( 化学療法)などを複合的に用いた治療を進め治癒あるいは延命を目指すが、猫や犬の場合、なかなかそうはいかない。「脳」という精密でデリケートな部分だけに手術をはじめとした治療実績が少なく、知見が積みあがっていないため、有効な治療は知られていない。

そのためどうしても「できるだけ苦痛を軽減しながら、残された余命を全うするための治療」(緩和治療)が第一選択になる。

つまり、愛猫に脳腫瘍が宣告されると、いくら「できる治療があるなら受けさせたい」という飼い主さんの願いがあっても、それが叶うことは難しい。

こうした常識をひっくり返したのが安部先生だ。診療のスタイルも独特で、日中は栃木県内の総合病院で人の脳外科医として勤務しながら、猫や犬の脳腫瘍などの相談があれば、夜間の時間帯に「安部どうぶつ脳神経外科クリニック」で診察。手術が必要と判断され、飼い主さんが希望する場合「日本小動物医療センター」(埼玉県所沢市)で手術を行う。他に、仙台動物医療センター(宮城県仙台市)、近畿動物医療研修センター(大阪府東大阪市)などからの依頼を受けて、手術を行うこともある。

安部先生が猫や犬の脳手術をはじめて6年以上になるが、全国から「脳腫瘍で治療法がないといわれた」といった相談が寄せられ、年間約30~40件の手術を行っている。他に「てんかんがなかなか治らない」といった難治性の脳疾患の治療にも対応している。

人の医療の知識を動物医療に生かすため医師の道へ

脳神経外科は独特のスタイルで診療を行う

安部先生が「動物の脳神経外科」という未開拓の分野を意識するきっかけになったのは、獣医学部6年生の頃。

「附属病院での実習中に、電車にはねられ頭蓋骨を陥没骨折した犬が運ばれてきたのです。でも治療法はなく点滴を受けながら犬舎の中をぐるぐる回っているだけで、最終的に安楽死になりました。動物が脳にダメージを受けてしまうと、ほとんどがこうしたパターンで『なぜ脳は治療できないの?』という釈然としない思いがありました」。

やがて卒業の時期を迎え、当時は動物病院への就職を考えていた安部先生だったが、「あるとき父から『医学部に進んで医者にならないか』と進言されました。初めは驚きましたが、せっかく人の医学を学べる機会を与えてもらえるなら、その知識と技術を動物医療に生かそうと考えたのです」。

そうして医学部で学び、医師免許を取得した安部先生は、栃木県内の総合病院で初期研修を受け、後期研修のために獨協大学の脳神経外科に入局。脳腫瘍、脊髄腫瘍、くも膜下出血、頭部外傷など、昼夜問わず、手術に明け暮れる。

「そこでは『とにかく丁寧な手術』を徹底的に学びました。人の脳には大小含めた無数の血管が走っていますので、一瞬の気のゆるみで重要な血管を傷つけて、脳全体が腫れあがってしまったり、脳梗塞を合併してしまったりすることがあります。リスクが高い分、より丁寧に確実に手技を進めるよう訓練されました」

大学病院で約7年間、年間約400~500例の脳外科手術を行い、その知識と技術を、次は猫や犬の脳外科手術に生かすことになる。

じつは安部先生の奥様は本誌115号にご登場の岩下理恵先生。岩下先生の実家の岩下動物病院の一部を借りて診療している。写真は院長の岩下栄一先生とお母様の克子さん

「脳腫瘍治療の理想は、バイオプシー検査(切除した病変の病理組織を詳しく調べる検査)を行って病理診断し、その種類や悪性度によって、手術、放射線、化学療法を組み合わせて治療を行う方法です。

しかし動物医療には人の医療のような皆保険制度がありませんので、バイオプシー検査から手術、放射線、化学療法では治療費の問題が大きくのしかかります。そうした事情を踏まえ、先に手術で腫瘍を取れるだけごっそり取って、その腫瘍組織を病理診断し、良性なら治療は終了。悪性なら放射線や化学療法を検討していきます」

この話にある「脳腫瘍の病理診断」は、(人の)「日本脳腫瘍病理学会」理事の脳腫瘍病理医と、日本小動物医療センターの病理専門の獣医師とダブルチェックで行われる。前例の少ない動物の脳腫瘍の病理診断を、経験豊富な専門の病理医と、病理専門の獣医師とが連携をとることで、より正確性を高めるためだ。

また興味深い話では、猫や犬の脳と人の脳は、構造的にはよく似ていて「人の脳のミニチュアのようです」と安部先生。

しかし、人の脳は、脳を包む「軟膜」がしっかりしているが、猫の軟膜はとても薄く壊れやすいなど、決定的な違いがある。「猫や犬の脳は、脳ベラ(脳手術で使う専用の手術器具)で少し引っ張るだけで簡単に壊れてしまいます。そのため力を加減して、脳組織を壊さないように慎重に進めなければなりません」

その一方で、人の脳は血流が多く、手術で少しでも腫瘍を残すと術後に大出血を起こすことがあるが、猫の脳は血流が少なく、そうしたリスクは低い。人と猫の血流の違いがわかる話では、人は心臓内に血栓(血の塊)ができると血流の多い脳に飛んで塞栓(血管を塞ぐこと)を起こすが、猫の場合は脳ではなく、脳よりもはるかに血流の多い後足に飛んで塞栓を起こす。

人と動物、一長一短ある中で、手術のプランや方向性、頭を開くアプローチも根本的には人の手術方法を用い、解剖学的な細かい違いを考慮し、応用しながら手術は慎重に進められる。そのため猫や犬の手術は、7〜12時間程度かかり、これは人の脳腫瘍の一般的な手術時間よりもかなり長い。

「手の打ちようがない」と言われたら一度私に診させてほしい

安部先生と岩下理恵先生の愛猫・杏ちゃん。取材の数日前に虹の橋を渡りお会いすることは叶わなかった

「私が初めて日本小動物医療センターで犬の脳腫瘍の手術を行ったとき、助手についてくれた獣医師が『(動物は)開頭したら命を落とすと思っていましたが、助かるんですね』と言ったことを覚えています。その犬は術後の経過もよく、普通に退院しました」

これまで安部先生が執刀した猫、犬の脳外科手術は138例。そのうち、術後の肺炎や腎機能障害などの合併症を除き、96%以上が無事に退院している。

「人が命に関わる病気やケガをしたとき、医師は『この手術(または治療)をやらなければ命が助からないのでやりましょう』と言えます。一方、動物医療では、飼い主さんの考え方や医療費の問題、治療方法の限界を含め、なかなかそうはいきません。動物においては『自然に任せて看取る』というのも一つの選択肢です。

しかし『できる治療があるならやってもらいたい』という飼い主さんの希望があれば、私は脳神経外科医としてできる最大限の治療を行います。たとえ腫瘍が摘出困難な場所にあったとしても、外減圧術( 頭蓋骨を外して脳圧を上げない手術)などで、この先腫瘍が大きくなっても脳圧の上昇を防ぎながら少しでも延命できる方法など、何かしらの方法が提案できるでしょう。

もし今、猫が脳腫瘍で『手の打ちようがない』と言われたとしても『本当に手の打ちようがないものなのか?』また、『できることがあるならやってみたい』と考えるなら、その猫を一度、私に診させてもらいたい。おそらく、何かしらの治療法なり延命法が提案でき、次の段階に進めると思います」

Abe Yoshihiro
安部どうぶつ脳神経外科クリニック院長、上都賀総合病院脳神経外科部長。1999年酪農学園大学獣医学部卒業、2006年獨協大学医学部卒業。2 012年脳神経外科専門医取得、2017年博士号取得。

安部どうぶつ脳神経外科クリニック
栃木県栃木市河合町9-4
TEL 0282-51-1830
診療時間:19:00~23:30(完全予約制)
休診日:土日曜、祝日(その他臨時休診あり)
E-mail:heitosca@yahoo.co.jp
https://www.doubutunou.com

知っておこう!脳腫瘍の症状

脳腫瘍は部位により様々な症状が現れます。猫に以下の症状が繰り返し現れた場合は脳腫瘍の可能性があります。
1.けいれん発作
2. 左右どちらかに歩き回ったり、左右どちらかのフードを無視する
3. 左右どちらかに倒れる、ふらつくなどの歩行障害
4. 凶暴になるなどの急な性格の変化
5.目が見えていないようで、左右どちらかにぶつかる
6.食事や飲水でむせる
7.あまり動こうとしない、食欲がない、痛がる、など

※2~6は「巣(そう)症状」と呼ばれ、腫瘍ができ、障害される部位によって症状が異なる。ほとんどが右脳と左脳どちらかに腫瘍ができるため、体の左右どちらかに症状が現れる。 ※⑦は進行すると瞳孔不同(大脳の圧迫が原因で瞳孔が広がる)が見られ、意識障害を起こし緊急性が増す。

-猫びより

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