さっちゃんたちの面倒を見てくれる麻里子ママは、小さなオートキャンプ場と小さなカフェをひとりで切り盛りしています。
カフェの名は「ダム」。近くにダムがあるからです。
カフェのまわりにはいつも犬や猫がいて、思い思いにくつろいでお客を迎えます。
ピザを焼く窯の上にも、カフェの店内にも、カフェの前に広がる原っぱにも。
さっちゃんがたいていいるのはカフェの中。寒い季節にはストーブのそばでまったりしています。
さっちゃんはよく小さなお客さんに話しかけられています。
この日は、しゃっくりが止まらず「大丈夫?」と心配してもらいました。
さっちゃんはここで生まれたのではありません。
麻里子ママがよそからもらってきたのではありません。
お客さんの一人が持ち込んできた子です。
10年前のことです。
一匹の子猫が町なかに捨てられていました。
歩き回れるくらいの月齢なのに、地面をはいずっています。
通りかかった女の人が抱き上げると、子猫は4本の脚をピーンと突っぱりました。
マヒのために体が動かせないようです。
女の人は猫好きでした。でも、家にはこれまでに保護した猫が何匹もいて、もう手いっぱいです。このままでは、車にはねられるかカラスの餌食になるか、たちまちいのちが尽きることは、目に見えていました。
でも、保護したとしても、育てることも里親を探すことも、とうてい無理と思われました。
女の人は意を決して、獣医さんのところへ子猫を連れていきました。
「安楽死をおねがいします」
それが子猫にとって一番いい方法だと思ったからです。この子を生かしてどうなるのだろうか……。
若い獣医さんは、きっぱりと言いました。
「いやです」
懸命に生きようとしている小さないのちを前に、「安楽死」という名の「殺処分」は、その獣医さんにはできなかったのでした。
女の人は途方に暮れました。
そして頭に浮かんだのが、ときどき立ち寄るカフェ「ダム」の光景でした。
あそこなら、ワケアリだった犬も猫も幸せそうに暮らしている。この子を里山の猫仲間に入れてくれるかもしれない、と。
不安で手足を突っ張っている子猫を見て、麻里子さんはさらりと言いました。
「いいわよ、置いていて」
実際は「これ以上、犬や猫が増えるのはもう勘弁」という気持ちだったのですが、「私がNOと言ったら、この子はどうなってしまうのだろう」と思ったからでした。
一目見て「かわいい」と情が移ってしまったせいもあります。
「だけど、私は朝から晩まで仕事がいっぱいだから、付きっ切りで育てることなんてできない。ハッピーや猫たちに手伝ってもらうことにするわ」
麻里子さんが両手で抱き上げると、その子は緊張して、前足でひたすら宙をかきむしりました。まるで、こう言っているみたいに。
「お願い。ボクに怖い思いはもうさせないで」
麻里子さんは子猫にそっとほおずりしてささやきました。
「しあわせになろうね。だから、お前の名はサチ。今日から、サチはここの子よ」
麻里子さん夫婦にかわいがられ、犬のハッピー母さんにも文字通り舐めるように愛されて、さっちゃんは大きくなりました。
やってくるお客さんもかわいがってくれました。
さっちゃんを迎えたのは、十数匹の里山猫軍団。年長猫は年下猫をかわいがり、年下猫は年長猫を敬うという「自治社会」でした。
自分のことは自分でやるという、動物本来の自治社会でもあります。でも、自分より小さなものや弱いものに、よけいなイジメなど一切ありません。
奇跡のようなことが起きました。まるで動けなかったさっちゃんが、立ち上がり、歩き、転がるように走ることさえできるようになったのです。
さっちゃん自身が、毎日毎日、リハビリを頑張ったからでした。
さっちゃんは、みんなに交じって里山の子の一員として暮らすために、まず、壁に体を押し付けて立ち上がる練習を懸命にしました。
立ち上がれるようになると、一歩、また一歩、足を踏み出す練習を。パタン!と倒れたら、ハッピー母さんがかけつけて顔を舐めて励ましてくれました。
麻里子ママは、一日中クルクル働きながら、事故のないよう、さっちゃんがどこにいるか、いつも気にしています。
猫小屋かカフェの中なら安心なのですが、ワンパクさっちゃんはときたまぶらりと外に出てしまいます。
「カフェにいてね」と麻里子ママに連れ戻されることも。
ことんことん体を揺らしながら、階段も上手に下ります。
トイレにも自分で入って横たわって、気張ります。後の砂かけはできないけれど。
麻里子ママの手のすいた午後に、散歩に連れて行ってもらうのがさっちゃんは大好き。草の上では、転んでも痛くないし。
自分の足で大地に立つさっちゃん。なんていきいきとした表情なのでしょう。
さっちゃんは今、すっかり里山の子です。
誰よりも生きていることを楽しんでいます。
写真と文:佐竹茉莉子
※犬猫たちの顔ぶれは、本書発行の2017年当時のものです。カフェは現在休業中。