猫小説『佐々木テンコ』第7章「七夕の短冊」

猫一匹拾っても、世界は変わらない。でもその猫と家族にとっての世界は、まったく違うものになる。

実話を元にした猫小説、連載第11回。美味しいゴハンで最近太り気味のボンビに異変が…?

「春」「夏」「秋」「冬」がやってきて、「一年」がすぎる。

でもそれは、ただただくり返しているだけではないみたい。ランやプが前よりも、

「歳、くったなぁ」と、ため息をつくことが増えた。

 

歳をくうって、どんどんと覚えたことが増えていくということなのかな。

それとも太るということなのかな。

わたしもこの家に来た頃よりはずいぶんと、からだがおおきく重くなって、昔よりも高く跳べなくなった。

でもそれは、悪いことでもないみたい。

「大人のメインクーンは、体が大きいから動きがゆったりしてくる。関節に負担をかけないように、高い場所への上り下りには段差を増やさなきゃね」

ランが椅子やらいろいろなもので、高い場所まで上れるようにしてくれた。

ただボンビはいよいよ、太りすぎ。

「まるでお盆の時に飾る、ナスに爪楊枝さしたアレみたい」とランが言うと、プはのんきに

「猫は太ってもカワイイって、なんだかズルいなぁ」

そう言いながらも、

「でもへそ天やおばけニャンのポーズが取れないのは、ちょっとよくないかも」と、ボンビのお腹まわりを揉むようになでている。

「へそ天」や「おばけニャン」。もともとちょっとは警戒心があるのがわたしたち猫。だからわたしもこの家で、お腹を丸だしにして眠れるまでには時間がかかったけれど、ボンビは来

たときから、いきなり仰向けで眠って、ランもプもわたしもおどろいた。前足をチョコンと折りたたんで胸もとに揃えるのが、おばけのように見えるのだとか。

この家には、年越しくらいしかキチンとしたお祝いごとが、みごとにない。

なのに今年は、とっておきのお祝いがあるみたい。

それはランの「還暦」っていうもの。

「家族や親戚を集めての大げさな還暦祝いじゃなくっていいから。でもこの日に会いたい友人と、この日に行きたいレストランは、何年も前から決めている」

「私も、世界中を探しても探しきれないくらいの美酒を揃える!」

とにかく、ビックリするくらいにたのしそう。

 

ランもプも、その誕生日はわからないのだけれど、たぶんランの誕生日は一年でもっとも日が長いとき。

そして不器用なプも、美酒とやらを揃えることには自信があるようだ。

「しあさってだね」

ちょっとまえから、見なれない服や、服につけるこまごまとしたものを用意しているランは、夕ご飯をおえると、まるでプみたいに着がえては鏡のまえに立ち、

「ねぇ、プ。どっちが良い?」と聞くと

「いまのランに似合うのは、こっちかな?」

プも、ランの服やこまごまとしたものを、取っかえ引っかえしている。

 

夜中近くにベッドに寝ころんだランの横で、ボンビがころりと仰向けになって、お腹を見せたところでピタッと止まった。

「お、久しぶりに完璧なへそ天だ!」

いとおしそうにボンビのお腹をなでていたランの顔が、ふと曇った。

「プ。ちょっと、こっちに来て。ボンビのここを触って」

「なに、なに?あ、へそ天?ひさびさだぁ」

「違う。ここだよ、ここ」

ランはいままでさわっていた場所に、プの手をうつした。

「なにか、あるの?」

もう一度ランは、へそ天しているボンビのお腹をゆっくりとさわってから、またその場所にプの手をうつして、

「分からない?」と、プにたずねた。プの答えはおなじ。

「分からない」

ランはボンビとプを見ながら、すぅっと息を吸って吐いて、言った。

「還暦祝いは、延期」

「へっ!?」

「延期と言ったら、延期。いま、プにできることはふたつ。まずは用意してくださった皆に、延期やキャンセルを心から詫びること。つぎに明日朝一番で、ボンビを獣医さんに連れていくこと」

なにが起きかたのかが、まったくわからないプに、ランはいつもより低い声で話した。

「医者じゃないプが感じないのは仕方ない。でもここに、とってもとっても小さいけれど、しこりがある。

このしこりの感じは、人間だったら悪性の腫瘍の疑いがかなり高い。

つまり癌の疑いがあるということ。それに人間よりは、きっと進行が早い。

それに気づいてしまったのに、しあさっての還暦はとりあえず予定通りに祝うだなんて神経は、少なくとも俺にはない」

プが固まった。

ランはひとり言のようにぼそっとつぶやいた。

「久しぶりのこの完璧なへそ天が、吉となれば……」

プが朝からボンビを獣医さんに連れていった。

帰ってきたプは、まずはキャリーが大嫌いなボンビを、玄関で放した。

飛びだしたボンビはヤケクソのようにゴハンを食べはじめたけれど、プは玄関に座ったままだった。

ずっとずっと玄関に座ったあと、サンダルを思い出したように脱いでから、ノロノロとパソコンに向かった。

パチパチしながら、「やっぱりダメなの?」とうつむいて、あのときのランのように、目からつるりつるりと水を流した。

どれくらい、プはそうしていたのだろう。目から流れる水を乱暴にゴシゴシと手の甲でぬぐってから、スマホを手に取った。

「もしもし、西岡さん。先ほどは急なメッセージをすみません。

西岡さんのソマリちゃん、たしか一匹は乳腺の腫瘍でしたよね」と、ふつうを保てるギリギリという感じで、スマホに話しかけている。

それからは、「はい」「そうですか」しか言わなくなって、スマホを置いたあとは、いったんベッドにバタンと倒れて、またパソコンに向かっても、目から流れる水は、さっきよりも増えている。ダメだ、ダメだって、ずっと言いながら。

目から流れる水は、「涙」というものと知った。

帰ってきたランは、

「泣かないで。涙をふいてから、落ち着いて、分かっていることを説明して」

プがさっきスマホで話していたときのように、ふつうの声を出そうとしている。

「ボンビのしこりはね、乳腺の腫瘍だった」

「良性か悪性かがはっきりするのは、これからの細胞診?」

「ううん、猫の乳腺の腫瘍の場合、その細胞診ってやつをしなくても、ほぼ確実に悪性なんだって」

「どうすれば最も良いと、獣医さんは言っていた?」

「まずは、しこりのあった右側の乳腺の全摘手術。とにかく猫の場合、本当に人より色々なところへの転移が多くて進行も早いから、悪い場所だけ見つける度に手術して取るのは無理で、猫にもとても負担にかける。取った乳腺を検査に出すのは悪性の再確認のようなものらしい。手術する時に麻酔して、お腹の毛も剃るから、左側の乳腺も診察して、腫瘍があれば数週間後に左も全摘しなければならないって」

「ほかに、どんな説明があった?」

「ボンビの色々な数値から判断すると、今は手術に十分に堪えられるけれど、数値は変わるから。数値が安定しているうちに、できるだけ早いほうが良いって。手術前に数値の検査のための通院をくり返すのも、猫に負担になるって。手術の枠は、いちばん早くて明後日の午前中を空けてもらっている」

すこしだけランが、いつもの穏やかな雰囲気に戻った。

「ボンビにとっても誰にとっても、手術は辛い。でもいきなりのへそ天をしたボンビは、早く気づかせてくれるチャンスをくれたのかもしれない」

でもプは、うつむいたまま。またどうにかふつうの声を出そうとしても出せていない。しばらくうつむいてから、やっと顔を上げて、振りしぼるように言った。

「違う」

「なぜ?」

もう、プはふつうの声を出すのを、あきらめた。

「乳腺の手術は完治でも根治でもないらしい。予後の生活の質を上げるためのものだって。あの病院には獣医さんが三人いるけれど、術後の余命は、早くて半年、長くて一年半。それ以上に長生きした猫は、三人とも診たことがないって。西岡さんのソマリちゃんは二年以上も生きたらしいけれど、二年以上は獣医さんにも『未知の領域』って言われて、最期は見ているのも辛かったって言っていた」

ランはなにも言わなかった。

いよいよふつうの声を出せなくなったプが、一気に崩れて、ランへも誰へも言っているかではないように、もう涙を止めようともせずに、途切れ途切れに話した。

「太ったけれど、いつも楽しそうに猫じゃらしで遊んでいる、どう見ても元気なボンビが、一年半後にいなくなる?それも通院とか手術とか、辛いことがいっぱいかもしれない。同じ一年半ならば、いっそのこと、気づかなかった方が辛い目を知らずにすんだのかも」

ますますなにも言わなくなったランに、プはプを信じこませるように言った。

「ネットで一件だけ、乳腺の手術後に五年以上もぴんぴんしている猫を見つけた。ボンビも、そうならないかな」

ボンビはつぎのつぎの日の朝に、また獣医さんへ連れていかれた。

還暦祝いのためにランもお休みの日だった。

「乳腺の手術は見た目の手術の痕は大きいけれど、深く切らなくて痕も開かないから、痛みも大きくないらしい。だからよほどのことがない限り、当日にお家に帰る猫が多いって」

「じゃあ、夕方には連れて帰ろう」

夕方には白いものでお腹をぐるぐる巻きにされたボンビが戻ってきた。

ボンビはすこし、ボンヤリとした目をしている。

どこかボンビの好きな場所でゆっくりしたいみたいで、トコトコと好きな場所に行こうとするけれど、広くて片づいていない家でボンビが目の届かない場所にいるのが、心配で心配でたまらなそうなランとプは、家のなかをいろいろ仕切って、そのなかでボンビを見守ろうとしている。

でもボンビは狭い場所も、閉じ込められるのも大嫌いだから、ボンヤリとした目でも「イヤだ、イヤだ」って精一杯に鳴いている。

ボンビはゴハンも食べなかった。

「手術が終わって、すぐにゴハンを食べられないのは、ふつうなのかな」

「ありうると思う。でもひとりぼっちで病院で夜を過ごすよりは、ボンビにとってもストレスは少ないはずだし、食べたいと思えるようになるのを待とう」

ランが鳴いているボンビの頭を、ヨシヨシとなでた。

「こんな還暦を迎えるとは、思ってもいなかったけれど。ただ家族が揃った還暦で本当によかった。ボンビ、がんばったね。ありがとう」

でもボンビは、つぎの日もほとんどゴハンを食べなかった。

そのつぎの日は、まったくゴハンを食べなくなった。ランの顔が暗くなった。

「必要以上の通院は、ボンビに負担をかける。でもゴハンを食べられないくらいに、ボンビには痛みなど、なにかあるのかもしれない」

プはまた、ボンビを獣医さんへ連れていった。

「手術の痕もキレイだった。痛み止めを打ってもらった。このまま様子を見ましょう、って」

この何日かでプがやっと、ホッとしている。

夜中。

ベッドに上ろうとするボンビをプが

「無理しなくて、いいよ」と、そうっとベッドに乗せた。するとついさっきまで、やっとホッとしていたのに、あれっ?ていう顔にかわった。そして小さな布をボンビの背中にのせた。

「ラン、ちょっとこっちに来て」

呼ばれたランがベッドのそばに来た。

「いつもより少し体温が低いように感じたから、いまタオルケットをかけたの」

しばらくじっとしていたボンビが、背中に布を乗せたまま、ゆらりと立ちあがって、ゆっくりとベッドの先にある出窓のほうへ行こうとしている。カーテンのすき間に頭が入ったとき。

背中に乗っかっていた布が、頼りなくポトンと落ちた。

ベッドに布をのこして、ボンビはカーテンの向こうに消えた。

カーテンの向こうに、ボンビはもういないような気がした。

「ボ、ボンビ?」

プがカーテンを急いでいるのか、おどろかしたくないのか、わからないようなぎくしゃくした手つきであけた。

出窓でボンビはこちらに背を向けていた。

でも、なんなんだろう。

目のまえにいるのに、目のまえにいないよう。

 

ランの声がふるえている。

「ボンビに起きていることは……。麻酔を伴う手術をうけた人間でもあることなんだ。おそらく腎臓の急性不全」

プはすがるような目で、ランの言葉を待っている。

「でも最悪の疑いは、肝臓の急性不全。その場合……ボンビは明日を迎えられない」

プの声もふるえた。

「ど、どうすれば……。救急センター……?」

「いや。ボンビにとって、いま一番たいせつなことは、お家で朝を迎えられること。少しでも苦しくないこと」

この何日か、いや、いままでも、ランが崩れたり乱れたりするのを見たことはない。そのランの顔がゆがんだ。

「俺、嫌だよ。命がなくなってしまうことを論理的に推測できてしまう自分が、ほんとうに嫌だよ。医者になんてならなかったらよかった。嫌だ、嫌だ」

ランの泣く声をはじめて聞いた。ランが泣くと、プもワンワンと泣いている。ランは泣きながら、

「でもボンビは、天使のような猫だよ?世界から天使がいなくなるなんて、ふつうはあり得ないじゃないか」

ひたすら、そうくり返した。

 

プは泣きすぎて、疲れて、枕に顔をうずめて泣いたまま、眠ってしまった。

シンとした部屋で泣きかたが静かになったランは、もう一度ボンビの背中に小さな布をかけてから、

「テンコ、こっちに来てくれる?」とわたしを呼んだ。そして

「テンコ、あのね」と話しはじめた。

 

ボンビは出窓で朝を迎えた。

はかない空気をさわろうとするかのように、プがボンビを抱きあげて、そうっとキャリーケースに移した。

「ごめんね。また獣医さんに行くよ」

獣医さんから帰ってきたプは、キャリーケースを持っていなかった。だからボンビも、お家には帰ってこなかった。

 

「最悪の疑い」ではなかったようだ。

ボンビは獣医さんですごしている。

プは朝と夕方に、獣医さんへ行く。

プは外に出かけるとき、あんなにも服を着替えるのが好きなのに、毎日ずっとおなじ服を着ている。

何日かして、やっと帰ってきたボンビは、ひとまわりちいさくなっていた。

すこしだけ食べて、すこしだけお水を飲んで、すこしだけトコトコと歩いては、「なにもすることがない」という感じで戻ってきて、出窓で眠る。

目があっても、ほんのすこしわたしを見るだけで、すぐに目をとじてしまう。

せっかく帰ってきたのに、ボンビは何日かにいっかい、おなじ服を着たプに獣医さんへ連れていかれた。

大嫌いなキャリーケースに入るときに精一杯「イヤだ!」と鳴くこともなく、玄関でキャリーケースから出るときもノロノロしている。

そんなボンビが思い出したかのようにわたしのお腹に顔をうずめてきたとき、耳のうしろをペロペロしてみた。しばらくすると、ちいさなゴロゴロがひびいてきた。

 

「今日は七夕だ」

プがちょっと、明るい声で話した。これはプがなにかを思いついたときの、明るい声。

「笹の葉も短冊もないけれど、一筆箋だったらある。ふだんは行事をさぼっているから、都合が良すぎるかもしれないけれど。天と星に祈る」

「たしかに都合が良すぎるかもしれないけれど。いっしょに書いてみよう」

プは一筆箋とやらをテーブルに並べて、ランとちょっとしゃべりながら、とくに迷う様子もなく書きおわると、壁にペタッと貼りつけた。

 

つぎの日はひさしぶりに、プはちがう服を着て、ボンビを獣医さんに連れていった。

まえの日の夜、ランとプは、なにを書いたのかな。

いつもは「テーブルの上に乗っちゃダメ!」と言われるけれど、ランもプも、わたしを真似するボンビもいない。

テーブルまで一気には上れない。椅子に乗ってから、思いきってテーブルに上がった。ちょうど目とおなじ高さに、紙を貼った壁がある。

 

ボンビちゃんがたくさんゴハンを食べられるようになりますように

点滴のない生活に戻れますように

楽しい時間がいっぱいありますように

ラン&プ

 

もういちまい、あった。

てんこちゃんがこれからもなんの病気もなく元気ですごせますように

猫又になるくらいのビックリする長生きでありますように

ラン&プ

 

わかるような、わからないような。

でも「長生き」というものを、してみよう。じゃないと、ランもプもボンビも、困りそうだから。

 

文・堀 晶代
写真・堀 晶代/カズノリ

ほり・あきよ


フリーライター。物心ついた頃からたくさんの猫たちと育つ。大阪市立大学生活科学部卒。2002年よりワイン取材で日仏往復生活を送るなか、母の「フランスの猫の写真を見たい」という思いつきのような言葉から、猫や猫をとりまく人たちの撮影や取材を開始。自著に『リアルワインガイド ブルゴーニュ』(集英社インターナショナル)。現在は夫、猫二匹と一緒に大阪暮らし。

-佐々木テンコ, 連載