実話を元にした猫小説、連載第8回。仕事でフランスに旅立った「プ」と電話が繋がらず、いぶかしむ「ラン」。翌日かかってきた電話に涙する「ラン」を見て、「わたし」は確信する。どうでもよくないことが起きている。
ランが言った。
「テンコ。明日から俺は遠くに行くから、今からあなたとボンビを猫専用のペットホテルに預けなければならない。
迎えに来られるのは何日後になるかは分からない。キャリーケースに入るのも、よそで過ごすのも嫌いなのは知っているけれど、なにも分かっていないボンビと一緒に我慢できる?」
動かない表情を見たのもはじめてだったけれど、こんなにまっすぐに目を見られることもはじめて。
がまんできないときの文句の「いにゃっ!」も言えそうにない。たぶんわたしはボンビといっしょに、なにかを堪えないといけない。
それからランは、わたしとボンビが大好きな匂いのする箱を開けて、「とりあえず三週間分は用意しないと」と言いながら、わたしたちのゴハンを頑丈な紙袋に詰めていった。
詰めおわると、
「今日だけは嫌がらずにキャリーに入って。時間がない」と言われた。
差しせまる。そんな言葉を聞いたことがあるけれど、ランは差しせまっている。
キャリーの先は、いつもなら好きじゃない獣医さん。でもランの目には、「行きたくない!」とかそんなことを言えないくらいに、やっぱり差しせまったものがある。
わたしがキャリーケースに入ると、わたしの真似が大好きなボンビもスンナリとキャリーケースに入った。
獣医さんに行くよりも長い時間を車ですごしたあと、着いたのは、さっきランが言っていた「猫専用のペットホテル」という場所だった。そこにいた男のヒトと女のヒトはとても優しそうだけれど、ランが先になにかを伝えていたのか、「そういう事情なら……」と、とても辛そうな顔をしていた。
わたしとボンビはべつべつの部屋だった。
でも獣医さんで入院したときと比べたら、とても広くって、キャットタワーもあって、天井も高い。
となりの部屋にいるボンビに「にゃ?」と声をかけたら、のんきに「ニャッホ~」と返ってきた。やっぱりボンビはまったく、とんでもないことが起こっているとは気づいていない。だから、ボンビを不安にさせちゃいけない。
ランは猫ホテルでいろいろな紙になにかを書きおえたあと、わたしの部屋の前でうずくまって、「テンコ」と呼んだ。
プが言っていたのは、「テンコはニャ~って鳴かないね。高いニャの前に『ん』とか『ゴロ』が入る。メインクーンって、嬉しいときに、そういう鳴き方をするみたいだね」
間違いだらけのプだけれど、そうなのかも。「んにゃ」も「ゴロにゃ」も出てこない。いつもどおりに鳴けないわたしを見て、ランはわたしの頭をなでた。
「テンコ。俺は当分、あなたと会えない。あなたを信じているボンビをこの場で守って。それから……プは戻ってこないかもしれない。そうじゃなければ、俺ひとりで遠い場所に行くことなんてないから。あなたは大きな猫さんだけれど、俺よりはずっと小さい。その小さなあなたにお願いして、ごめん。でもプはいつも、あなたのことが大好きだ。自分勝手なプのために祈って。プがこっちに戻りたいと思わせて」
願い?
祈り?
わたしは猫だから音は聞きもらさないし、いままでずっとランとプの話しは聞き流していても、なんとなく言っていることはわかる。どんどん、どんどん、わかってくる。でもひとつずつのヒトの話す言葉をぜんぶ考えたことなんてない。
わたしがあの暑い場所にいたとき、いろいろなヒトへ期待をしたことは願いなのかな。
じゃあ、祈りはプのため?でもプは、いつでも元気に戻ってくるはずだし。
わたしをさんざん真似ているボンビも、なによりもランとプを待っていて、プがいたら、みんなではしゃぐ。
祈らなければ、あのはしゃいでいる時間は、もう戻ってこないということ?
一日一日がゆっくりとおわっていく。ホテルの「旦さん」という男のヒトと、「おかみ」という女のヒトはいつも優しいけれど、わたしもボンビも、こんな日がいつまでつづくかわからなくなってきて。
となりの部屋のボンビの「ニャッホ~」も、不思議そうな声色にかわってきた。
ホテルですごす一日がますますゆっくりと思えはじめたとき。あの自分勝手なプがいなくなるのかも?いきなり、そうハッキリと感じた。そしてきゅうに思い出した。それはわたしが獣医さんから戻って、やっと安心できたときの気もち。
ラン。プ。ボンビ。
みんないっしょの場所は、ここなんだね。
そこにプがいなくなるってことは、とてもよくないこと。願ったり祈ったりしていたら、なにかが元どおりになるのかな。
たとえば、ランとプとボンビがニコニコしているお家とか。
なにがあっても戻ってきなさい、プ!
そう強く思った。
これが祈りというものかな。祈りじゃなくてもいい。プ、戻ってきなさい!
最後に見たランの顔。あんなにも目からつるりつるりと水を流していた。いつもはあまり遠い場所には行かないと言っていたし、遠い場所の言葉が苦手なのも知っている。
そしてもっと、頭がハッキリとした。プはやっぱり、いなくなろうとしている。
しかも遠い場所で。なんでいなくなろうとしているのかは、まったく、まったく、わからない。
でもそのプを、ランはたったひとりで助けに行こうと思っているのでしょ。それは無理だよ。
「祈る」はわからないままだけれど、「願う」はわかってきたから、まずはランが遠い場所で無事にいられることを願った。
あんなに優しいランが、遠い場所で辛い目にあわないように。たぶんランが無事だったその先には、きっと元気なプもいる。
なにが起きているのかもわからないプに、願ったり祈ったりはむずかしい。だからせめてランへ、わたしの気もちをぜんぶ届ける。
あとね、プ。
わたしはランの目からの水がつるりつるりするのは、もう見ちゃいけないような気がする。
ランが笑って帰られるように、プはこれ以上の心配をかけたら、絶対にダメだよ。
そもそもわたしたちはよそ者の集まりでしょ。よそ者どうしなのに楽しくて幸せな時間は、プがいまがんばらないと、なくなってしまうような気もする。
もしランがほんとうに心をひらいてくれているのがわたしたちだったら、プにとっても、わたしとボンビにとっても、信じられないようなすごい時間が、あのお家で流れていたんだよ。
だからわたしへ、ランがお願いなんかをするようになっちゃったらダメだよ。
朝のおとずれが遅くなって、夜のおとずれもどんどん早くなってきた頃。
旦さんとおかみさんが、
「今日の夕方、お父さんが迎えに来ますよ」と言った。
夕方に来たランは、とても疲れて見えたけれど、優しい目をしていた。
「三週間も辛かっただろ? よく頑張った。ありがとう。お家へ帰ろう」
帰ったお家は、あまり変わっていない。いつもどおり、広いけれど片づいていない部屋。
でも、プはいなかった。
「旦さんとおかみさんには、あなたたちが好きなゴハンの作り方までは頼めなかったから。今日はとっておきの美味しいゴハンにするよ」
ゴハンは美味しかった。ボンビは昔みたいに、「掃除機がカリカリを吸い込んでいる」くらいの勢いで食べた。
ランもその間に、静かに食べて、飲んでいた。
でも、美味しいゴハンを夢中で食べおわったら、またプがいないことを思い出した。
ランは知らん間に、ベッドでスースー寝息をたてていた。
落ちつかなくて、ランの横にえいっ! と飛びのった。
するとわたしの重みを感じたランが、ムニャムニャと話した。
「うまくいけば、プは年明けに戻ってくるよ。プはね、膵臓の病気になって、とても危なかったんだ。そんなことを言われても、テンコには分からないよね」
またムニャムニャと、話した。
「俺が駆けつけたら、これも分からないだろうけれど、集中治療室っていう部屋にいた。でもたまにプがパチッと目を開けたら、ラン、テンコ、ボンビって言っていたよ。あとはタヒチとも。プは本当にボンビと似ている。好きなことを真っ先に思い出すみたい。でも好きっていう欲がある人は意外と強いんだ。もう、その部屋もちょっと前に出られたんだよ。あとは飛行機に乗れるまで元気になるだけ。きっと大丈夫」
ムニャムニャ。
「だから俺も安心して、今日からあなたたちと一緒に過ごせられる。テンコの祈りもきちんと届いていたよ。ありがとう。ムニャ。ありがとう」
わたしがいま、ひとつだけランのためにできること。それはムニャムニャ言うランのそばにずっといること。
ボンビもベッドにやって来た。そしてめずらしく、ボンビがランのおでこをペロペロなめた。そのなめかたがとっても優しかったから、ちょっとビックリした。
文・堀 晶代
写真・堀 晶代/カズノリ
ほり・あきよ
フリーライター。物心ついた頃からたくさんの猫たちと育つ。大阪市立大学生活科学部卒。2002年よりワイン取材で日仏往復生活を送るなか、母の「フランスの猫の写真を見たい」という思いつきのような言葉から、猫や猫をとりまく人たちの撮影や取材を開始。自著に『リアルワインガイド ブルゴーニュ』(集英社インターナショナル)。現在は夫、猫二匹と一緒に大阪暮らし。