猫一匹拾っても、世界は変わらない。でもその猫と家族にとっての世界は、まったく違うものになる。
実話を元にした猫小説、連載第2回。暑い暑い夏の夜、街をさまよっていた「わたし」は、ヨッパライの夫婦に家へ招き入れられ……。
家に入ってからも、足は自然と、よりヒンヤリしたほうへ向かっていく。つきあたった部屋はほんとうにヒンヤリしていて、すこし高くてひろびろとした場所には、世の中のすべてのヒンヤリを集めたかのような、テロンとした布がある。えいっと飛びのった。
なんという涼しさ!
あんまりにも気もちよくって、すこしずつ、からだや手足をのばしていくと、からだ中にヒンヤリがジワンリと染みわたってくる。
「この子、すごい猫だ……」
その声でハッとした。すぐさま、その場所から飛びおりることもできたのだけれど、ヒンヤリにうっとりとしすぎていて、ちょっと反応ができなかった。ランとプの、ふたつの顔をふり返った。
「実家で新しい猫を迎えるときって、どの子も緊張しているのよね。一週間以上、家具の裏や下から出てこない子もいた。まぁ実家にはほかの猫もいたから、よけいにかもしれないけれど。でも、この子、すごいわ。うちの家でいちばん快適な場所をすぐに見つけて。それだけじゃない、堂々としている!」
「俺も知っているよ。ここがさ、マンションになる前の一軒家だった昔に、居ついたミミって子がいたって話したでしょ。ミミも快適な場所を見つける天才だった」
「ちょっと違うよ、ラン。この子は最初から、それをやってのけたのよ!しかも広いほうの私のベッドを選ぶって!」
ランとプが、プのいう「広いほうの私のベッド」に、チョコンと腰をかけた。プがクスッと笑った。
「ほぉらね、やっぱり、蚤がいる。いま、蚤が跳ねたのを見た?」
「流れ星じゃないのだから。よほどたくさん蚤がいないと、そう簡単には、俺は跳ねる蚤は見られそうにもないかも」
「じゃあ、探そう」
ヒンヤリを味わいたいわたしの気もちなんか無視して、プはお腹のあたりをさわりつづける。
「あ、いる、いる。この子、毛が長いから見つけにくいけれど、山ほどいる」
プは蚤を追いつめて、プの両手の親指の爪と爪のあいだで、プチッとつぶした。
プチッ、プチッ、プチッていう音が、静かな部屋のなかにひびく。
ランがあきれた。
「こんなに器用なプは、見たことがないよ」
「誰にでも多少は器用にできることがあるのよ。あ、また、いま、蚤が跳ねた!見た?」
「うん、今度は見た」
「いまはイッパツで蚤退治できるお薬とかもあるらしいけれど、この子が少しでも痒くならないように、今夜は少しでも蚤を取っちゃえ」
わたしをゴロゴロと動かせば動かすほど、蚤のフンもベッドにたくさん落ちるみたい。
「どれくらい、路上生活を送っていたのかな? そうだ、この子、水も飲まないと。深いお皿に水を入れてきて。あ、トイレも用意してね。そこらへんにある低めの段ボール箱へ、シュレッダーに溜まっている紙を入れたら、今夜はしのげると思う」
ベッドの上に、水のはいったお皿が置かれた。
そうだ、ヒンヤリとゴハンと同じくらいほしかった、もうひとつ。
水。
飲んでみた。さっきのゴハンはうまく食べられなかったけれど、水の飲みかたは忘れていなかった。カラカラだったからだに、爪のさきまでゆっくりと、たいせつなものが染みながら落ちていくよう。
「ねぇ、プ。たしか近所の商店街にペットショップがあったよね?明日は、ひととおりのものを買いそろえよう」
「うん」
プはあいかわらず、蚤をさがしている。さすがにお腹をさわられるのもイヤになってきたから、ベッドの先にあるちいさな場所にうつった。
ランはちいさなもので、ベッドのフンを取っている。
ウウウウウウウウ
ウウウウウウウウ
またプが、おどろいた。
「へ~、この子、掃除機の音も怖くないんだ」
さっきまでわたしがいたベッドに、今度はランとプがゴロンと腹ばいになった。ベッドから、わたしのいるちいさな場所を見ている。
「わぁ、出窓に猫がいるね!」
「うん、いる」
「こっち、見ているね!」
「うん、見ている」
「きれいな目だね!」
「うん、きれいだ。まるでアーモンドみたいな形」
「眠れそうにないね!」
「うん、眠れそうにない」
ランとプは、うとうとしかけては目を覚まして、おなじような会話をくり返していたけれど、ようやくふたりからスースーという音がひびきはじめた。
わたしも眠くなってきた。
出窓で朝をむかえた。
でもランとプは、眠るまえのランとプとちょっとちがう。ヨッパライじゃない。そしてわたしを見ながら、「どうしよう……」とばかり、言っている。
「どう考えても、夜中の二時すぎに腹ぺこで蚤だらけで、抱っこできるような猫が一匹って、捨てられたのだとは思うのだけれど。それにこの子、飲みに行く前にも駅の近くで見ているから、少なくとも半日ちかくは、あそこらへんをウロチョロしていたはずよね」
ん?わたしは見られた覚えはないのだけれど。
プがつづける。
「でも、警戒心なさすぎっていうか、人懐っこいというか。もしかしたら迷い猫なのかも。だとしたら、こんなにかわいい子だもん。飼い主さん、今ごろ、きっと必死で探しているよ」
「う~ん」とランは腕をくんでから、
「ただ、昨夜は駅前に居場所がなかったことは確かだと思う。いったんは家にいてもらってから、飼い主さんを探そう。まずはゴハンとトイレグッズを買いに行こうよ。蚤のこともあるし、獣医さんにも連れて行こう。ということは、キャリーケースも買わなきゃ」
ベッドから降りると、トイレらしきものがあった。よかった。ちょうどしたかったところ。
オシッコした場所に紙をかけてから出ると、
「待てよ、下は段ボールってことは……」
ランがトイレをどけた。
「やっぱり!絨毯まで、オシッコが染みている!」
「ホントだ~」
ゲラゲラと笑うランとプを見ていると、なんだかションボリしてしまった。
「いいよ、いいよ。こんなトイレを作った俺が悪い」
と、ランはわたしの頭をそっとなでた。
「この子さ、大胆なようで、とても遠慮がちだね。さぁ、プ、この子がうちの家で、楽しく過ごせそうなものを、今すぐ買いに行こう。この子が、お腹いっぱいになって、もとのお家に戻っても恥をかかないくらいのものはね!」
ランとプは、出ていった。
たくさんのものを抱えて、戻ってきたランとプは、
「ごめんね、遅い朝ゴハン」と、お皿に猫缶のなかみをパカっと入れてくれた。そして
お水はここ、トイレはここ、爪とぎはこれ、と、いろいろなものを置いていく。
ゴハンを食べるわたしを見ながら、プがため息をついた。
「駅前にはいつも通り、『猫にエサをあげないで』っていう看板やポスターは沢山あったけれど、『猫、探しています』っていうような貼り紙とかは一枚もなかったね」
パソコンというものからパチパチした音を鳴らしていたランは、
「とりあえず、次は獣医さん。なにか情報もあるかもしれないよ」
パチパチの音が止まった。
「近所で日曜日でも診てくれる獣医さんは、ここだね。評判も悪くない。この子、キャリーケースに入れて」
オシッコを失敗しても怒らないヒトたちと油断していたら、プがわたしをひょいと抱き上げた。行きたくない場所に行くのだと直感して、また足に力をいれても、今度はあの素っ頓狂な歌を歌ってくれないから、よけいに不安になった。そもそもキャリーケースってものに、なぜだか、よい思い出がない。
たしか、あの暑い場所にほうり出されるまえも、
― さ、キャリーに入りなさい。
って言われた。
こまかい編み目のあるキャリーケースに押し込められ、ドアの外に出た。一瞬にしてむぅっとした暑い空気のなかに逆戻りだ。エレベーターに乗って、もういっかいドアをくぐる。ランも車を持っているらしく、キャリーケースごと、車のなかに入れられた。
「頑張ろうね」
とプは言ってから、キャリーケースの上にすき間をあけて、わたしののどをなでる。
「その子の様子はどう?ゆっくり運転するから」
「ゴロゴロと喉を鳴らしている」
「じゃ、安心だ」
「ううん。猫が喉を鳴らすって、たいていは幸せなときなのだけれど、ケガをしたり、不安になったときもゴロゴロ鳴らすから。ケガの治りが早くなったり、自分で自分を癒やす効果もあるんだって。だからこのゴロゴロは、きっと『不安のゴロゴロ』だよ」
獣医さんにつくと、受付という場所で、女のヒトが
「当院は初めてですか?」と聞く。
「はい」
「猫ちゃん、ワンちゃん、それとも他の動物ですか」
「女の子の猫です」
「お名前は?」
ランが何かを言おうとするまえに、プが迷いもなく答えた。
「テンコです。佐々木テンコです」
「では、こちらで名前を呼ばれるまでお待ちください」
待ちながら、ランが言う。
「なんで、いきなり、佐々木テンコなの?」
「だって佐々木という私たちが、JR天福(てんぷく)駅のそばで出会った猫だから。診察券を作るときに名無しでは獣医さんも困るでしょ。だから『天福』の『天』をとってテンコ。プクコって、美形のこの子には似合わないし。当分は、テンコでよいのでは?」
獣医さんではいろいろとプスっとされたり、プチっとされたり。ガマンしていたら、
「おとなしい猫ちゃんですね~。蚤や耳の汚れはありますが、保護したばかりの猫には見えませんね」とほめられた。
「避妊はしていないようですね。二、三歳くらいの、雑種の元気な女の子ですよ。血液検査の数値も問題ありません。今日は蚤を取る薬を処方しましょう。猫が嫌がらないようならば、毛や皮膚もかなり汚れているので、シャンプーしてあげてください」
またキャリーケースに入れられた。車を運転するランが、
「とりあえず、病気じゃないみたいでよかった」と言うと、キャリーケース越しに透けて見えるプは、「どうも、そうじゃない」という、納得のいかない表情をうかべている。
ヒンヤリとした部屋に戻れた。
ほっとした。
ベッドで寝そべっていると、プが黒いものを手にわたしを見ながら、パシャパシャしはじめた。ランがそれを止める。
「まだ24時間も経っていないのに、撮ったりとか色々しすぎたら、この子のストレスになるよ。カメラが嫌いな子もいるって言っていたの、プでしょ」
「でもね、実家の猫たちってね、みんな捨て猫。拾っても、里親がみつからないような猫ばっかり」
「だから?」
「ただ一匹だけ、ブリーダーさんから『失敗作だから、売れない』って言われて、引き取った猫がいたの。ブリーダーさんにとっては失敗作だったかもしれないけれど、なんて言ったらよいのかな、ほかの子たちとはちがう雰囲気があって。この子も雑種って言われたけれど、なんだか、ちょっと違うのよね。猫種が分かったら、飼い主さんを探すヒントになるかも」
たっぷりとわたしをパシャパシャ撮ったあとに、プもランのよりもひとまわりちいさなパソコンを、パチパチしはじめた。ふん、ふん、ふん、とひとしきりうなずいてから、となりの部屋にいるランにむかって、
「ラン~~! ちょっと、見て」
となりの部屋からランが来ると、
「こうやって見ると、この子って、西岡さんの猫たちと似ていない?」
「どの西岡さん?」
「アビシニアンみたいな黄金色で、毛足の長い猫ばっかりと暮らしている、あの西岡さん。前に飲み会で西岡さんがケータイでいろいろ猫を見せてくれた時、うちの子たちはみなソマリって教えてくれたでしょ。西岡さんだったら、猫種は詳しそうだから、ちょっと写真を送ってみようか」
プはパチパチしながら、西岡さんにいろいろと送ったようだ。
送り終えると、プはわたしをふり返り、
「あなたの謎が解けるのかも?」とにやりと笑った。