猫一匹拾っても、世界は変わらない。でもその猫と家族にとっての世界は、まったく違うものになる。実話を元にした猫小説、ついに最終回!
乳腺の腫瘍が見つかり、手術を受けたボンビ。それから月日は流れ……。
ランとプが居間の壁に紙を貼ってから、秋、冬、それからもなんかいか、春、夏、秋、冬……がおとずれた。
ランとプと、わたしとボンビ。
たまにとても遠い場所にプがいても、お昼にランがいる場所がちょっと遠くても、近かったら獣医さんからでも、みんなもわたしもどこかに行っても、このお家にかならず戻ってくる。
でも、ちょっと気づいたことがある。それはランとプがここのところ、春も夏も秋も冬も、ヨッパライになって夜中に帰ってくることがなくなったこと。
そしてプが「出稼ぎ」と言って、ふいっといなくならなくなったこと。
ランとプがふたりしていない時間なんて、たいしたものじゃない。
だって、たった夕方から真夜中をすぎるまでだから。
プがふいっといなくても、ランもわたしもボンビだって、いまでは誰もおどろかない。なぜそんなに、外に出ようとしないのかな。
なにか心配するようなことがあるのかな。
ドーンと安心してくれていいのに。
わたしが好きなのは、「いつもどおり」の、このお家だよ。
そして、また夏。
おろおろと「定期検診に行かないと」としか言わないプへ、ランが
「どう考えても、大丈夫だよ」と声をかけてから、ボンビは獣医さんに連れていかれた。
帰ってきたプは、キャリーケースから勢いよく飛び出すボンビを見つめたあと、スリッパをはくことも忘れて、壁に貼った紙に手を合わせた。
「三年を超えるなんて。奇跡がおきた」
「だから、大丈夫って言ったでしょ。ショックなことは沢山あった。でもこの三年間、ずっとボンビと暮らしていて、ある時から命の危うさを感じることはなくなった。奇跡があったとしたら、ただひとつ。あの夜にボンビが完璧なへそ天で、とんでもなく早く、俺に知らせてくれたこと」
「獣医さんも、完治って言ってくださった。でもボンビももう、人だったらおばあちゃん。予後じゃなくって、老後が少しでも長くて、楽しければ」
またプはポロポロと泣いている。信じられなかった奇跡に泣いている。
プのポロポロが止まって、ランが、「打ち明けて、いい?」とプにたずねた。
グズグズな声をこらえて、プが「どうぞ」と言った。
「プがいなくなりそうになった時。テンコは大きな猫さんだけれど、俺よりもずっと小さい。
なのにプの無事を、俺は小さなテンコにお願いするしかなかった。
あの状況は、他人へ私情を見せられないものだったから。そのなかでテンコはなにかを感じて、力をくれた」
プが押しだまった。
「だからテンコには、二度とお願いをしたらダメだと思った。けれどボンビがカーテンの向こうに消えそうになった夜。また命にかかわる、お願いをしてしまった。ボンビがお家へ戻ってこられるように祈って、って。俺とプだけじゃボンビに届けられないなにかを、テンコに託した」
プのポロポロがまたあふれ出しそうになって、ランが言った。
「昔、話したことを覚えている?プはいっそのこと、『何月何日生まれの猫、メインクーンっぽい子です。もらってください』という手紙を添えて、玄置の真ん前に置いてくれたらよかったのにね、って言った。
年齢すら分からないとお世話もしにくいとも。
そうだと思う。
でも『分からないから、想像していないこともやってのけるのかもしれない』と俺が感じたことを、
テンコは今、はるかに超えている」
ランが「一筆箋を出して」と言った。
「何するの?」
「テンコに、最後のお願い」
「七夕じゃないのに?」と不思議そうなプに、ランは
「七夕じゃないから。天や星にお願いするのではなくって、テンコにお願いするんだよ」
ランは一筆箋に、するすると書いて、七夕の紙よりも、もっともっと高い場所にペタッと貼った。
背伸びしながら一筆箋を読んでいるプに、ランが話す。
「もともとテンコは、気の強い猫じゃなかったと思うんだ。天福駅前では食いっぱぐれたり。ただ初めてこのお家で、オシッコを失敗したとき」
プはランに背を向けたまま、答えている。
「あの段ボール箱で作ったトイレね。懐かしい」
「テンコは悪くないのに、俺たちはゲラゲラ笑ってしまって。でも申し訳なさそうにションボリするテンコを見ていたら、なんだかとても遠慮がちな猫だなと思った。きっと猫に『申し
訳ない』とか『遠慮する』なんて感情はなくって、人間からはそう見えるだけなんだろうけど」
読み終えたプが、テーブルの椅子に座った。
「ふつうは、そう言うよね。人の勝手な思い込みだって」
「でも一回や二回じゃなかったから。あきらかに何度も申し訳なさそうだったり、遠慮していたり。そのうち思いやりや優しさも感じて。我慢していることもある。それらが偶然ではな
いタイミングなんだ。俺たちへだけではなく、ボンビへも」
「猫に思慮深いって言葉を使うのはヘンかな?」
「ううん。ヘンじゃないどころか、それらはテンコの生きる術という感じではなくて、どうも俺たちやボンビのために振る舞ったような気がして、仕方がない」
「だから、このお願いなのね」
プが後ろに貼ってある一筆箋を、ふり返る。
「今まで重いお願いをしたのは俺だけれど。でも考えてみたら、お願いをせずともテンコは毎日の小さな幸せをずっと支えてくれている。もう十二分にテンコに甘えてきた。あとはその
不思議な力を、テンコ自身のためだけに使ってほしいと、心から願うんだ」
プが、わたしをじいっと見た。
「私もテンコに、お願いをしていい?ランのお願いとまったく同じだから」
そしてコホンとせき払いしてから、ついさっき貼ったばかりの一筆箋を壁からはずして読みはじめた。
テンコさま
あなたは猫としてはおおきいけれど わたしたちよりはずっとちいさい
そのちいさな体で わたしたちを守ってくれて ありがとう
あなたがいたから わたしたちの今がある
あとはその不思議な力を あなたのためだけに使ってください
一日でもながく いっしょにいてください
テンコとかテンテンと呼ばれたことはあるけれど、「テンコさま」と呼ばれたのは初めてだったから、ちょっと戸惑った。
するとプが、久しぶりにあのヨッパライの歌を歌った。
あつい あつい 夏の夜
おなか ぺこぺこ
のみ ぴんぴん
のども ホントにカラカラだ
あつい あつい 夏の夜
それも あとすこしで おわります
すずしくって おなかも ぱんぱん
お水も たくさん ありますよ
あと もう すこし ガマンしてくださいな
「助けたつもりが、助けられたってことなの。ありがとう」
プが一筆箋を壁に貼りなおした。
この夜も、居酒屋ささきは長かった。でも居酒屋ささきが長いのって、ランとプが、とくになにも心配していないってことだから。
わたしとボンビのまえに、おやつのお皿を置いたプがクスッと笑う。
「テンコ、絶対に人が話していること、分かっているよね?」
「うん、分かっている」
「字も読めるのかな?」
「それは、どうかな」
「テンコとお話しできたら、楽しいだろうな」
「うん」
ランはうなずいてから、ちょっと首をかしげた。
「いや、楽しいだろうけれど、説教されそうな気もする。
もう、まったく……とか、あの時はこうすべきだったでしょ?とか」
「確かに!私なんか、猫じゃらしの指導を一から受け直さないとダメだね」
プは猫じゃらしに負けたあれこれを、ほんとうに楽しそうに話しつづけている。
エピローグ
あたち、ボンビといいまする。
プは、いいます。
「ボンビ、あなたはね。むかしはマリーちゃんっていう、なまえだったの」
ふうん。
「ボンビ、あなたはね。ふつかかんだけ、わたしのジッカにいたのよ」
ふうん。
「ジッカというのはね。わたしがそだったおウチ」
ふうん。
「そのジッカでね。あなたはマリーちゃんって、よばれていたの」
ふうん。
「もっとまえには、あなたはどこにいたのかなぁ?なんていうなまえだったのかなぁ?」
おウチはいっこしか、ありません。
ここです。
そしてあたちは、ボンビといいまする。
プは、いいます。
「ボンビもさすがに、じぶんのなまえがボンビって、わかっているよね」
はい。
「ボンビ!」
よばれたのなら、こたえましょう。
ニャッホ~!
プが、またよびます。
「ボンビ!」
ニャッホ~!
プが、いいます。
「もしかして?」
プが、よびます。
「テンコ!」
よばれたのなら、こたえましょう。
ニャッホ~!
プが、おどろきます。
「やっぱり、いまでも、わかっていない?」
わかっていますとも。
わかっていないのは、プでありまする。
テンコ。
あたちがじぶんでならす、のどのゴロゴロよりも、テンコのがすきです。
テンコって、ランとプが、よびます。
テンコって、ランとプがよぶと、あたちも、ついていきます。
たのしい。
おいしい。
きもちいい。
ねむたい。
テンコって、ランとプがよんだあと、ほかになにがあるのでしょう。
わかりませぬ。
うんうんと、おもいだしてみました。
たのしい。
おいしい。
きもちいい。
ねむたい。
うんうん。
やっぱり。
これしか、ございませぬ。
ほかになにか、あるのでございますか。
「テンコ!」
そう、よばれたのなら、こたえましょう。
ニャッホ~!
文・堀 晶代
写真・堀 晶代/カズノリ
ほり・あきよ
フリーライター。物心ついた頃からたくさんの猫たちと育つ。大阪市立大学生活科学部卒。2002年よりワイン取材で日仏往復生活を送るなか、母の「フランスの猫の写真を見たい」という思いつきのような言葉から、猫や猫をとりまく人たちの撮影や取材を開始。自著に『リアルワインガイド ブルゴーニュ』(集英社インターナショナル)。現在は夫、猫二匹と一緒に大阪暮らし。