猫一匹拾っても、世界は変わらない。でもその猫と家族にとっての世界は、まったく違うものになる。
実話を元にした猫小説、連載第7回。入院先の動物病院から無事帰宅した「わたし」を迎えたのは新入りの「ボンビ」。避けようとしても「ニャッホ~」と鳴いてスリスリしてくる。マイペースぶりに、何だかどうでもよくなってきた「わたし」だった。
ボンビはわたしの真似をする。
ボンビがオシッコを失敗したのは、最初のいっかいだけ。それからはわたしの臭いのついたトイレでキチンと用を足し、失敗をしたことはない。わたしはたくさんのトイレをオシッコとウンチと気分とで使いわけているけれど、その使いわけかたもピッタリとおなじになった。
ランが「掃除機がカリカリを吸い込んでいるみたい!」ってあきれていたボンビのゴハンの食べかたも、いつのまにか「気に入ったものから先に、少しずつ」にかわって、ゴハンの取りあいにもならない。
おやつは、かなり好き嫌いがあるみたい。わたしのお気に入りのおやつは「ペット用のフリーズドライ」というものだけれど、ボンビのお気に入りはお刺身。それもかなり「高いもの」らしい。
でもランとプは「やっぱりボンビがキリなくおかわりしようとする魚は、いつも美味しい。猫のほうが鼻はいいから、ある意味、人よりブレがないかもしれないね」と、楽しそうに食べている。
どうもそういうことは「好き嫌い」じゃなくて「こだわり」というようで、
「こだわりボンビ認定マークってお魚屋さんを開いたら、繁盛するかも」
プがあといちまい、もうあといちまいと、ボンビの鼻先でお刺身をひらひらさせる。
「体の大きなメインクーンの所作は見慣れたけれど、ボンビは小柄な体つきに合わない、まるで大きなメインクーンのようなポーズをよく取るのよね」とも、ふたりはよく言う。
ボンビがガニ股なのか、アメショーがガニ股なのかは知らないけれど、あわせにくそうな前足をピッタリとあわせプルプルしている。
ポーチやベランダでは顔をすっとあげて、わたしの横で、ないたてがみにふいてくる風を待つ。
「猫にも社会性があるとは聞いていたよ。ボンビにとってテンコはお母さんか、お姉ちゃんなのかな。俺たちが躾けるよりも、テンコは誰よりもステキなお手本みたいだね」
みょうにりりしくなったボンビ見て、ランが感心する。
「最初はどうなることかと思ったけれど、ここまで手のかからない子とはまったく予想外。ランがお父さん、テンコはお母さんかお姉ちゃん、私は時々いなくなるけれど、絶対に戻ってくる友だちくらいに思ってくれたら。ね、ボンビ」
「期待しすぎちゃダメって言ったのは俺だけれど、よい意味で期待を裏切られた。ボンビにもいろいろあったとは思うよ。でもキャリーケース以外は、ボンビの辞書には『嫌』とか『叱られる』とか『羨(うらや)む』というマイナスの感情が見事にない。
あるのは『好き』『美味しい』『楽しい』だけ。まるでヨーロッパの絵の中で飛び回っている天使みたい」
わたしも不思議に思う。あの暑い場所にいたとき、すこしヒトやほかの猫からの、「わたしのことは好きじゃない」という気もちを感じることもあったから、とにかく身を隠していたけれど、ボンビにはまったく、そういうものがない。
ボンビを見ていると、「あつい あつい 夏の夜」の歌を思い出す。
あの歌を聴くと、どうでもよくなるのと同じで、ボンビを見ていると、よい感じの、どうでもよい。好きにしなさい。
秋がおわる頃。プがまた「出稼ぎ!」と言っていなくなった。
プが出稼ぎをしている遠い場所と、わたしたちのいる場所とでは、夕方と真夜中のおとずれがちがうみたい。
プが出稼ぎに行くと、ランは毎日、真夜中すぎにスマホというものでプと話している。なんでもスマホになってから遠い場所へもタダでかけられるのだとか。
ヒトって話すことがほんとうに好き。
でもランが「おかしいな、今夜はスマホに出ない」と言った、つぎの日の昼。鳴ったスマホにランは、
「もしもし、あれ? 中谷さん! お久しぶりです。ちょうどウチの奥さんも今、フランスなんですよ。
そちらはまだ朝の四時でしょ。
奥さんも電話に出てこないこんな時間に、何かあったのですか」とふつうに話していたあと、はじめてヒトの表情が、まったく動かなくなるのを見た。
ランの表情は動かないまま、固まっている。
ランは「はい」「分かりました」「では」としか言わない。スマホを切ったあとも、ランの表情はまったく動かないまま天井を見ている。
どれくらいランは天井を見ていたのだろう。動かない表情のまま、思いきったようにパソコンをパチパチし始めた。
パソコンがパチパチする音は、いつもすこし楽しげに聞こえる。パチパチの向こうには猫にはわからない、なにかがあるようで、プも「書けない~」とか言いながらも、どこか楽しそうな音をひびかせていた。
でもいま聞こえてくるパチパチは、楽しさをまったく感じないパチパチ。そう、獣医さんで真夜中をすごしたときとおなじ。シンと寂しくなって、その寂しさはランがパチパチを続ければ続けるほど、部屋の空気がもっと寂しくなって、すとんと落ちる。
プが出稼ぎに行くほんの少しまえ、新しいバッグを買って、はしゃいでいた。
「これ、まさに南の島のバッグって感じ。またいつかタヒチに行けたら、絶対にこのバッグを持って行くんだ!」
それからプはいろいろな服を着がえては、鏡のまえでそのバッグを持って、
「う~ん、やっぱり合う!」と、にんやり笑う。
「ラン、このコーデも見て!」
すこし、めんどうくさそうにパソコンから目を離したランはため息をついた。
「似合っているのは分かったから、もう何度も見せてくれなくても、良いよ」
それでも着がえてはバッグを持つプを見て、とうとう笑いはじめた。
「ランはギターが上手だから。猫との旅行は無理っぽいけれど、テンコとボンビも一緒にタヒチに行けて、ランが椰子の木の下でウクレレとか弾いて、テンコとボンビがビーチで寝そべっていたら、もう最高!」
プはもっともっと笑った。
やっとパチパチをやめたランが、ベッドのはしに座った。そしてベッドの横にある、プのバッグが置いてある場所、そのなかに並ぶ、あの新しいバッグを見ていた。
「プ。あなたはこのバッグを使わないままで、いいの?」
ランの目から、水がつるりと流れた。その水はつるりつるりと止まることがない。
自分勝手なプ。なにもかもを信じて「好き」しか知らずに、おおきくなるボンビ。
いつも変わらないのはランだけだったのに、ランの表情がやっと動いても、それはやっぱり見たことがないもので、ランの目からは水が止まらない。
どうでもよくないことが起きている。
文・堀 晶代
写真・堀 晶代/カズノリ
ほり・あきよ
フリーライター。物心ついた頃からたくさんの猫たちと育つ。大阪市立大学生活科学部卒。2002年よりワイン取材で日仏往復生活を送るなか、母の「フランスの猫の写真を見たい」という思いつきのような言葉から、猫や猫をとりまく人たちの撮影や取材を開始。自著に『リアルワインガイド ブルゴーニュ』(集英社インターナショナル)。現在は夫、猫二匹と一緒に大阪暮らし。