文・写真 小森正孝
神話の時代、荒海の龍神が大暴れして人びとが住めなかった土地があった。困った神々が中国から招いた文殊菩薩は、1000年にわたる説法で龍神を改心させ、人びとを守る神になると誓わせた。平和が訪れた海に文殊菩薩が如意を浮かべると浮橋になり、そこに龍神が土を置くと島になり、さらに天女が松を植えた。これが天橋立のなりたちだと『九世戸縁起(くぜとえんぎ)』は伝えている。
この古文書が伝わる智恩寺は、北側に天橋立と丹後半島を望む岸に境内を構える。904年の創建以前から神聖な土地とされており、水墨画家・雪舟の国宝『天橋立図』にも現存する塔や石仏が描かれている。
早朝、寺の山門を抜けて本堂に向かうと白い猫がいた。後を追うと天橋立が見える海岸に出た。海から朝日が昇る中、毛繕いをする猫は天女のように美しい。「当院の歴史は古く、文殊菩薩の霊場として信仰を集め、平安時代には醍醐天皇により、勅願所として寺号を賜ったと伝わっています」と語る前住職で閑栖(かんせい)の萩原顥士さん。
「私は90を超えていますが、猫は子どもの頃から好きで、常に近くにいて家族のように生活をしてきました。また、寺院としても経典や寺宝をネズミから守るため猫を大事にしてきました。今日では癒しの存在として参拝客に愛されています。時にはいたずらもしますが……」
そう言いかけて「猫だから仕方ない!」と笑うあたり、根っからの愛猫家らしい。現在は境内に8匹の猫が暮らしているという。
陽が高くなって暖かくなると、ミルク(♂)が現れ、階段や廊下で毛繕いや昼寝をする姿が参拝客を和ませる。
人懐こいシロはすぐに仲良くなってくれて、名前を呼べば近寄ってきて遊んでくれる。時々聞こえる鳴き声に誘われて境内に行くとモミジ(♀)がいる。
近寄らせてはくれるが触るのを許さず距離を保とうとする猫らしい猫だ。暖かい季節には、他の猫たちも境内で日光浴を楽しむようになるそうだ。
参拝客がまばらになると、天橋立を望む石垣の上にシロが現れた。並んで景色を眺めているうち、文殊菩薩が猫の姿で生きる知恵と活力を授けてくれるような心地がしてきた。顥士さんのお話を思い出した。
「今の時代、生き物に触れる機会が少なくなったように思います。お寺に生き物がいることは、命の大切さを身近で学ぶことができ、触れ合うことにより心が癒されるように思います」
日が暮れて山門に帰ろうとするとモミジの声が聞こえた。「また来なさい」と言われているような気がした。
天橋山 智恩寺
京都府宮津市字文珠466
TEL 0772-22-2553
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